「草創・・・栗林峯太の足跡」は約7年前に九州の釣り雑誌の雄、「釣紀行」が
執筆・掲載した記事です。
この度当社は出版権者でもあり著作権者でもある「釣紀行」様から特別に許可を
いただき、当ホームページでご案内出来ることとなりました。
GFG会長等の重職を担い釣り界の重鎮であられる栗林氏と小川陽一郎の若かり
し日の石鯛釣りにかける情熱を当コーナーでご紹介できますことは管理人として
これに勝る喜びはありません。
この場(ページ)を借りて、「釣紀行」様へ厚く御礼申し上げます。 |
釣り人・栗林峯太
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Vol.1 序文・少年時代 |
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栗林峯太、1925年生まれ。今年で71歳を迎える。
九州の石鯛釣りは、彼の手によって始められ、発展してきたといってもいい。
こう書くと栗林は、決して自分一人の力ではないと否定するに違いない。栗林と同じ時代を生きた
人 々によって・・・と、言い換えたいに違いない。それがまた、真実なのかも知れない。その栗林に、彼の半生を振り返ってもらった。当時の石鯛釣り師がどれほど熱い思いを抱いていたかを知ってほしい。
<少年時代>
大正14年2月14日、栗林は七人兄弟の三男坊として、大分県宇佐郡院内町高並に産声をあげた。父は鍛冶屋をやっていた。栗林家は代々鍛冶屋を引き継いでおり、先祖は国東の藩主のお抱え刀鍛冶であったという。近世の大分県は小藩が林立し、大友氏改易後は岡、臼杵、府内、杵築、安岐、富来、高田、中津に諸大名が封じられていた。が、幕末まで存続したのは中津、杵築、日出、府内、森、岡、臼杵、佐伯の八大名しかいない。栗林の祖先がどの大名に仕えていたかは、今となっては知るよすがもない。
お抱えの刀鍛冶が野に下ったのには勿論理由がある。御殿女中とぬきさしならない仲となり、殿様の勘気を被って国外追放となったのだ。以来、高並の地に住み着き、田畑も広く所有していたらしい。ところが、栗林の祖父の代に、その財産は雲散霧消(うんさんむしょう)する。祖父が村芝居に凝ってしまい、各地で芝居を打って回ったのだ。
この祖父には3人の息子がいた。長男は日露戦争の折り、戦病死してしまう。次男は本家の養子に入った。本家は田畑が豊富だったので、三男である栗林の父を呼び寄せ、再び鍛冶をやらせた。物心つかぬ頃から、栗林は両親が目の前で鍛冶仕事をやっているのを見ている。峯太少年も手伝わされた。
こんなエピソードがある。峯太少年が尋常小学校三年の時だった。父親が牛の競り市に出かけた留守に裏山で遊んでいて、無断で持ち出した鉈(なた)を折ってしまったのだ。見つかれば叱られるのが分かっている。叱られないようにするにはどうすればいいか少年なりに考えた。その結果、自分で鉈を作ろうと思いつき、それを実行した。鍛冶のイロハはすでに知っていたことになる。なにぶんにも少年の手でつくるのだから、原形の三分の二程度の大きさでしかなかった。父親の目から見たら稚拙(ちせつ)なところもあったろう。しかし、元あった所へそれが置かれているのを見た父は、一言も言わなかったという。
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Vol.2 海釣りと出会う [ Top ▲ ]
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高等小学校を卒業した栗林は国鉄に入り、門司鉄道管理局門司貨車区に配属される。
車両修理が主なその部署には鍛冶に必要なものがそろっており、栗林の技術にさらに磨きがかかる。同時に、栗林は海釣りに出会う。
生まれ育った地は山の中で、釣りといえば川のハエ釣りでしかなかった栗林にとって、海の釣りは魅力に満ち満ちたものだったに違いない。
関門連絡船の最終便が出たあと、照明が残った船着き場の桟橋でセイゴ釣りをしたのが、栗林峯太の初めての海の釣りだった。
栗林は叔父(しゅくふ)の家に寄宿しており、そこの息子が釣りをしていたせいで、二人してよく釣りに通った。竹竿と人造デグスの時代である。まだウキはなかった。オモリと針を付けただけの簡単な仕掛けだった。
やがて徴兵検査を受ける。第一乙種合格。すぐにでも招集されるはずだったが、国鉄から入隊延期願いが出された。その当時、栗林らは中堅どころに当たり、国鉄を運営するうえでなくてはならない存在だった。彼らが招集されると国鉄そのものが動かなくなる恐れがあった。
車両修理に追われているうちに終戦を迎えた。栗林の釣りはいよいよ本格化する。
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Vol.3 スズキ釣りの時代 [ Top ▲ ] |
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戦争が終わりおおっぴらに釣りを楽しめる時代が訪れると、栗林は国鉄を利用して山陰を釣り回る。対象はもっぱらスズキだった。遠くは島根県との県境に近い山口の須佐、田万川にまでおよんだ。
仙崎にはよく通った。まだ橋は架けられてなく、青海島との海峡がスズキは一番釣れる所であった。すでに80mmと100mmの横転リールが登場している。ギヤ比一対一の通常型と、一対二・五の快速型があった。
竿は八幡・中央町の河内屋に五三竹の中通しを注文した。三間半とか四間という長い竿だった。
スズキ釣りは少しでも長いほうが良く、栗林は五間半も持っていた。(一間は1.8m、従って五間は9m)
一番下には10号前後のオモリがあり、6号のエダを2、3本出した胴付き仕掛けで、ホンムシをエサにしたブッ込み釣りになる。
スズキが食うと一気にリールが逆転する。大抵は竿二本の置き竿で釣っていた。ビクは専用の物をあつらえた。従来のビクでは、細長いスズキを効率よく収めるのに具合が悪かったのだ。
最高12尾のスズキを釣った時は、さすがに入りきれず、自分で工夫した生かしビクにも入れて帰った。
やがて電気ウキが登場する。
竿もガイドの 付いた外通しになり、そんなに長くなくても良くなった。
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Vol.4 初めてのイシダイ [ Top ▲ ] |
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昭29年秋、戸畑駅に勤務していた吉武重彦が栗林にこう言った。
「おい、津黄というとこでイシダイやらカンダイが釣れるらしいぞ。行ってみんかい。」という話をしていたら、国鉄の小倉工場に、“九州の釣”に執筆している人がいて、その人の記事に、浜田の一つ先の下府(しもこう)でカンダイが釣れると書いてあった。「吉武さんよ、ここでも釣れるらしいぞ」 ワカメをたくさん採って帰ったというから、4月か5月だったろう。
吉武という人は、魚が釣れなかったらワカメでも貝でも持って帰る。それがなかったら山に入ってフキを採って帰る。「まあ、手ぶらで帰らん男やった」その吉武と初めてイシダイ釣りに挑戦する。
他にイシダイ釣りをする人はなく、どうしたらいいのか何も分からなかった。竿やリール、道具はスズキ釣りの道具をそのまま流用した。
ワイヤーは買ったものの、針の結び方が分からず、ハンダ付けまでしてみた。エサはサザエを使うことだけは知っていたから10個ずつ持って行った。
その下府で、栗林はすごい引きに遭遇する。80mmの横転リールのギヤが吹っ飛んだ。道糸をたぐって引き寄せたのがカンダイだった。
次に、ようやく津黄へ行くことになる。ただ、このときは栗林に急に所要ができて、吉武一人で釣行した。帰ってきた吉武の釣果は、一貫五百(5〜6kg)もあろうかというカンダイだった。
ヤラレタ!という気持ちですぐ単身で津黄へ急いだ。ところが慌てていたせいか、列車を乗り間違えてしまう。当時は下関からそのまま山陰本線を走る列車と、山陰本線と厚狭まで走って、それから美(?)を経て長門へ至る列車が連結されていた。これは下関で分離するのだが、栗林はうっかりと美(?)経由の車両に乗ってしまったのだ。
長門から人丸まで戻ったものの、連絡するバスがない。たまたま川尻行きのバスがあった。それに乗って小田まで行き、そこから津黄まで歩いた。
釣り場に着いたのはもう夕方だった。夜釣りもするつもりだったから、サザエ10個の他にホンムシも沢山用意していた。右手のワンドで見当をつけて仕掛けを入れたら、日暮れまでにカンダイと
4kg少々のイシダイが釣れた。
イシダイという魚はこんなにものすごいものか… 栗林は一発でイシダイ釣りの魅力に引き込まれ、スズキ釣りは一切やらなくなった。
栗林が30歳の時だった。
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次回はVol.5 「吉武重彦のこと」を掲載します。こちらへ
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