小川陽一郎著作
  

第三場 名人列伝、一人目の章 
     烈魚殺して飯食らい 童子養う凄い奴(一)
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 ジャングルは雨期だった。人も水没する程に続いた。水が身体の中に染み込んで来る様な心配をした。マラリアは戦友の命を奪っていった。傷口はジャングルの金蝿に産卵を許し、高度の湿度と亜熱帯の猛暑は其処にウジ虫を養った。
 この凄い奴は、数百キロに及ぶジャングルの強行軍に耐え、デンデン虫を喰らい、その皮は石で叩いてほぐし長い時間をかけて飲み下した。生き続け生き続け、死神がとうとう諦める迄頑固に執拗に生への執着を強行した。

 青年期には鰹漁の船乗りだった。正確には少年だった。十四才で鰹船に乗った。
 初乗りはエンジンの付いていない鰹船だった。白い帆と八丁櫓は動力の総てだった。
 藍紫に光る黒潮本流の真只中へ漕ぎ出し船が沈まんばかりに鰹を釣り捲り、帰路波が高くなると、どんどん捨てながら走った。
 凪いでいる時には船が沈む程の鰹を持ち帰った。のぼり鰹の大群は黒潮を埋め尽くしていた。鰹鳥も空一杯に飛んでいた。

 十年生きとりゃあ不思議な位の無謀な漁であった。二度シケに会い漂流の体験を済ませていた。それこそ板切れ一枚を命綱に六日間も生き延び、再度恐れる風もなく海人(うみんちゅ)として働きまた転覆。
 二度目の時は二人の兄と父親を失うが、この凄い奴は死神が死ぬ事を許さないのか、と思う程頑健に生き残り、大戦の大渦の中に巻き込まれながらも、ジャングルにも打ち勝ち、この生まれ故郷に帰り着いていた。
 細身の凡そこの男の連れ合いにはとても見えない病弱そうな妻と、一人の女の子が財産の総ての様な、無欲無心の生活を楽しんでいる風であった。

 蒼い狩人は烈魚をまだ征服していなかった。
 魅了され陶酔させられ夜も昼も烈魚の幻映を抱きながらの毎日が続いているその頃、台風のメッカである黒潮洗う日南海岸の最南に位置する小さな漁村に現れたのは、乗っ込みの石鯛を狙う魂胆に違いなかった。
 たまたまその村とも呼べない様な集落にジャングル帰りが、よく風に飛ばされないものだと思える粗末な家に荒々しく住まいしていた。
 運命は何を目的として人に人を巡り逢わせるのやら、ああ神様教えて‥‥

 ナイロンの網はまだ存在していなかった。
 綿の網は少しヒンヤリとする風の吹く春の夜明けに、手に海水の残り香を伝えながら心に心地良かった。
 三枚重ねの地獄網もまだ海の種族を困らせてはいなかった。素材で色彩の薄い伊勢海老の立て網から、色々の魚やヒトデや珊瑚類などを取り外すのを旅の狩人は手伝っていた。赤やガラ、透明に透き通る、ルビー色が僅かなる秒間、男を酔わせた。

 「それ後で俺んちで刺身を食うたい。旨いぞ。おおそれから、そいつを焼いてやるから、そうそう、その黒い奴たい」
 飯を食いに来いとか、俺の家に泊まれなどは一言も言わない。
 蒼い狩人はこの家に宿をする事になるのも承知している様だった。
 
 言葉のいらない世界は旅の狩人の好む心地良い銀世界だった。いい所に来た、いい所に来た。心が訳もなく興奮していた。
 栄蝿の空や宝貝の大きなからにヤドカリが住まいし、網に沢山掛かった。
 ジャングル帰りが時々足で蹴っては、這って逃げ様とするのを一つの山にまとめながら、伊勢海老を網から外していた。
 男もすぐにそれを覚え、足と手が忙しく働いた。珍しいものを食わしてやろうという優しさは、先程から感じていた狩人の男は、それをヤドカリを食えと言わないので総てをもう知っていた。

 きっとこいつは乗っ込みのあの烈魚の大好物に違いない。この男、俺が何をしに来たのかもう見抜いている。と、その後にはヤドカリを扱う足が大事さと優しさを漂わせた。ジャングル帰りはその時、並々ならぬぞ、海を知っているぞ、こいつ若いが海人だ。と既に見抜いていた。

 ヤガラの刺身は旨かった。癖は全くなく甘味の強い透き通る様な白身だった。
 ワサビはなかった。どす黒い地作りの醤油がその白身の旨さを倍にした。
 酒は焼酎だった。男は飲めないと言った。薄いお湯割りを作り、飲まなくても良いと差し出してくれた。
 飯にはサツマ芋が入っていた。黒く見えたのはニザ鯛だった。皮は剥ぎ三枚おろしで網焼きにされ焼き上がる頃に、醤油でゆるめられた砂糖入りの味噌が塗りつけられ、焦げて香って美味しかった。
 明日食わしてやろうと言いながら、いろいろの魚の名前を言った。名前はさっぱり判らぬが、あらあれはあいつだ、あれはこれだと見当は付いた。

  夜の十一時頃、飯と酒とお茶は終わった。
 「さあ行くか」と古いゴム長を揃えてくれた。
 「ガニを捕りに行くたい。明日連れて行くから」と、蒼い狩人は何を釣りたいのか、その男の住まいの中に持ち込んだ大きなズタ布の竿袋や、リュックサックで見抜いてしまっている様だった。

 「あすこに布団を敷いてありますから」、その男の女房は初めて口を開いた。
 ニコリと笑い飯をつぎ、焼いた魚をそっと前に揃えてくれるだけだったその人が初めて口をきいてくれた時、旅人は最後の心配が消えていき、嬉しそうに顔の筋肉を弛めながら、暗闇の中へジャングル帰りの後を追っていった。

 大きな声がした。
 「此処には今迄誰も来た事ないたい。あんたが初めてたい」闇に消えながらその声は、俺は喜んでいる、と、そんな心も後ろへ続く蒼い狩人に伝えた。

 春の三月、あと二日で終わろうとする日南の夜空は、南国風でブラマンクの銘画の切れ端だと男に思わせた。
 その蟹は急流が走り、荒波が岩を叩くこの黒潮海岸に生きているのに相応しく、薄造りでその機能性の高い足も実に薄造りで平たく、動く事のみに進化発達を遂げた事を物語っていた。 水深一メートルより海中にその蟹を見る事は稀であった。夜行性で夜の干潮時には露出した岩盤の上を餌場とし、海草を主に食し魚介類をあまり好む風ではなかった。 
 磯際に伊勢海老を狙う立て網には、決してこの蟹が掛かる事はなく、いろいろと知恵の多い凄い奴も、こいつだけは竹の長い先に小さなネットを付け、遠回りをして水際に先に待ち伏せた。
 気付いた蟹が海中へ入ろうとして脱兎の如く岩の上を走るのを、網を被せて取るのではなくドボンドボンと三十センチほどを水平に飛んで水に飛び込む。その方向性を変えられないウィークポイントを狙い、蟹が磯を走る、サッと水際に網を出す、蟹は網の中に飛び込む、男が水際を進む。  
 アラレがこぼれる様にザアーという音を聞かせながら蟹は次から次に飛び込んで来る。アッと言う間に数十匹をそれ等を竹の籠に移し、今度は潮の引いた水際に腹這いになり、手探りで岩の亀裂の間を盲滅法ひっ掴んでは籠に入れ、しかし、どの磯場も割れ目や蟹のいる場所は熟知していればこその技であった。
 三キロ程も歩いて二百を超える蟹を取ると、「けえろう」。
 蟹の捕り方をただ一言も口で説明しない。帰り道「網は深いがいい。網が太いと自由がきかん、時々水をすくうと蟹は皆網の底に行く、重なると網の動きが鋭くなるねぇ」これで終わり、達人が極意を伝えるには親切過ぎる事なのかも知れない。この蟹を石鯛蟹と蒼い狩人は名付けた。

 村には十メートルに満たない小さな堤防があった。大きな胴丸籠に蟹を入れ、ロープでつなぎ海へ入れた。「暗くしとかんと死ぬからなあ、潮が通さんと死ぬからのう、底に沈めると死ぬぞ」、あとは自分で解れと言っている様な、奴と男の乗っ込み石鯛秘伝受の入口は、此処から始まり始めた。
  「眠れよ、オイは一時間もすると網を上げに行く。朝飯食って今日も昼まで眠る。三時が丁度いい潮じゃから船は一時に出す」と、明日の事をみんな話して二人は小さな家の中へ消えて行った。どちらの背中からも蒼い炎が燃え立っているのが見えた春の真夜中だった。

 狩人は精神を落ち着かせようと必死に努力していた。
 大きな動揺が身体の総てを覆い尽くしていた。四年間の烈魚の釣りが音を立てて失われていく自信と共に崩れ去ろうとしている。本能がそれを知らせる。
 何かが違う、総てが違う、俺の昨日までの釣りで、この土地の石鯛が釣れない筈はない。しかし、何かが違う。

 此処では二枚や三枚の石鯛を釣る事をまったく問題にしていない。恐らく一日に数十枚が目的とされている。何よりのその証が、あの異常なほどの数の石鯛蟹の準備を見れば判る。  水際があり潮流の足速やな沖の岩礁で、あの浮力があり沈みにくい石鯛蟹がカブセの主力である筈はない。それならば少しその量が足らない。凄い奴はきっと外にカブセを準備している筈である。
 俺の釣りは通用しないぞ。判らないのに仕掛けを作る方法もない。見て盗むしかない。真似るしかない。
 よし準備は止めた。釣りもなしだ。奴の助手を務めよう。弟子だ。屈辱が心を締め付け、圧迫感は何時間も続いた。

 外気の心地良さとは裏腹に呼吸は苦しく眠りにくかった。薄い部屋の天井を、まばたきを忘れた眼が、何を捉えるでもなく、うつろにじっと睨んでいた。
 騒がしい出漁のざわめきが、ヤキダマエンジンのポポン、ポンポンポンの音を混じえながら活気を男に伝える明け方に、「何糞、彼奴の技を身に付けて俺は必ず改良して、それを遙か超える新しい大魔術をこの土地に残して帰ろう。そうだ、そうすればいいんだ。その為に眠れる狼、いや寝たふりのウルフに‥‥」そこにやっとの事で精神が届いた時、体力をカムバックさせ様とする本能が、ヤレヤレ俺の出番だと働き始めた。闘争心と強い信念を顔面に表現して、深い眠りの底へ落ちていった。夢は見えないかも知れない。
 今夜はきっと魔界への旅はしないだろう。

 豊後水道が南で終わる所に栄螺の大量の生息地帯は終わる。瀬戸内海によって吐き出された海流は、南下して豊後水道を犇(ひし)めき合いながら日南海岸に届いた頃に、黒潮本流の壁に出会い行く手を阻まれる。
 海底の岩礁の条件が栄螺の繁殖や捕食に適さないのか、又は珊瑚や諸々の南海の小生物等との折合いが好ましくないのか、その数は著しく少なくなる。
 そして大ヤドカリは栄螺の減り始めた所からどんどんと増え始め、黒潮の通り道には必ず大ヤドカリは棲んでいる。栄螺で烈魚を釣ってみると、まず間違いなく釣れる事は確かであった。
 しかし、むき身の栄螺が目の前にあれば喰らうという事であって、そう有利な最高の餌とはなり得ない。

 「栄螺取れますか」「ない事はないけどなぁ」この会話が答えを与えてくれていた。  

  旅の狩人は苦痛を感じながらも精神の切り変えを始めていた。
 撒き餌には何を使う? 付け餌にはヤドカリ。石鯛蟹は適している。しかし満月の夜に伊勢海老の網は休漁するので、それは大サドカリもゼロを意味する。小潮の中でも石鯛蟹の捕獲はなかなか容易ではない。 僅かな波が岩を洗っても石鯛蟹は実に捕りにくい。
 そこ迄考えると幻の第三の餌がある事を予知する事は出来たが、それが何であるかはどうしても考えつく事は出来なかった。

 いつも静かに黙々と準備を始めるこの男の身体は、その空白の時間をもて余し、深い入江の深にあるその集落の沿岸を、行ったり来たりを繰り返しただじっとしている事が出来ない心の動揺を暴露していた。
 海老網を上げに行った男は、まだ小さな波止場に帰っては来ない。ひたすらに未知の世界の幕開けを待つ事しか他に打つ手はなかった。
 異様な興奮は段々と高まり、静かなる動作とは裏腹に瞳は青く光り、燃える精神を表情していった。帰って来る。もう帰って来る頃だ。足は船着きの波堤へ向いた。左に突き出した松の生えた小さな出っ張りの影から、小船の先端が顔を出した。それは現れ、それはまるでその男へ向かって来る様に、どんどん進んで来た。

 不思議な事が起こった。その遙か彼方の水平の線と、空の接触する部分に見た事もないこの土地の釣り場や、あの凄い奴が二本足で立ったまま、烈魚を空へほうり上げた姿が、進み来る船と、自らと総てを重ねて異時同図の幻映として、空間を隙間なく巨大に埋め尽くし、僅かに残る旅の狩人の産毛を興奮的に逆立たせた。本能は恐がっている。その向こうに確かなる手応えで、一つの技をまた身に付けて、歩き去って行く自分を想像した時に、やっと現世に戻る事が出来た。  
  男は一瞬「寒い」と、小さく呟いた。

                                  (二)へ続く